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シューマンの「幽霊の変奏曲」

作曲家ストラヴィンスキーの言に「音楽は音楽以外の何ものも表現しない」というものがある。文学も思想も物語も「音楽」ではない、ということだ。トートロジーではあるが、「私は私でしかない」というような悟りの領域のようにも感じられて、僕はこの考え方は好きである。

一方この言の一つの側面として、文学や思想や物語を付随した”標題音楽”など純粋ではなくストイックさに欠ける、というような、ロマン主義への批判に繋げることができる。僕自身はそれが恥ずべきこととは思わないが、主張自体は一理あるとも思う。例えば、「鳥やそよ風のような音型を使って森を表現した音楽」といっても、鳥やそよ風はあくまで特定の書法にあわせてサンプリングしたものにすぎず、結局それらの素材を動かすのはやはり歌心や構成や音響の効果などの音楽の発想あってこそだからだ。音楽の本質は音楽なのである。

そのような不純な手法に見える”標題音楽”も、題材によっては純粋にストイックな絶対音楽の片鱗を見せることがありうるのではないかと思う。例えば「死」だ。

死は誰に対しても訪れる宿命であり一生涯における結論のようなものである。死後の世界は浮世離れしているし、その存在を認めないのならば虚無そのものである。いずれにせよそれはとても音楽らしい現象ではないだろうか。イマジネーションを駆使して音楽の中に世界を探すことはできる。だが音楽で世界を直接見ることはできない。
「死」について考えることは理論的な音楽について考えることに近いと僕は思うのだ。

さて、作曲家ロベルト・シューマンが最期に作ったとされる通称「幽霊の変奏曲」という曲がある。この曲は妻のクララ・シューマンが出版を躊躇するほどのいわくつきの恐ろしい背景がある。
この曲の正式名称は「主題と変奏」であり、何も知らずに聞き流したならば、なんとまあ地味な内容の変奏曲か、と思うであろう。
そう、この曲に限ってはエピソードを知らずに聞くと真価がわからないくらいの曲なのである。それはもはや音楽にストーリーをつけた”標題音楽”という枠組みすらも超越し、逆に、現実に起きた出来事に音楽が付随した、とでも言うような奇妙な現象が起きている。
それは最期の音楽である、ということと、間接的に死に導いたこと、そして音楽と死の奇妙な接点ゆえかもしれない。

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シューマンは幻覚や幻聴にひどく悩まされていた。ある晩彼は天使の合唱が幻聴で聴こえそれを五線紙に書き留めた。その主題に基づいてヴァリエーションを書いた。それが、この「主題と変奏」、通称「幽霊の変奏曲」である。
その後数日後に彼は再びこの曲の楽譜を書いた。クララの証言によればそれは完璧な模写だったという。この楽譜を書き終えるとシューマンは何に導かれたのか突然家を飛び出し、ライン川に身投げをした。
幸いシューマンは一命をとりとめたが、余生は精神病院で過ごすこととなった。クララは「主題と変奏」以降のその頃の作品を全て廃棄したので、事実上この曲が、彼の最期の曲として残された。

幻聴のように繰り返しの多いテーマ、そしてヴァリエーションのくせにほとんど変化せずに、耳にこびりついたかのように離れないメロディ。
僕はこのエピソードを知って聴いた時、呪いのような凄まじいエネルギーを、この表情の薄い曲の中に感じた。

2018-06-29
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