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解体新書-死女の唄-

なぜ、シビトノウタを作ったか?

この作品の前身のひとつとして「Endor(エンドル)」という曲があります。
「Endor」はサムエル記に登場するエン・ドルの霊媒師の女をモチーフに、クラシック音楽の亡霊を描いたものです。この作品の初演ではモーツァルトのオーボエ四重奏と共に演奏されておりました。
石川はある時クラシック音楽の作曲に対してひどく打ちのめされた時期がありました。自身のクラシック音楽活動のこれから先を迷う折々、日本音コンの演奏審査廃止等の現代音楽の先行きが不安になるような衝撃的なニュースから垣間見る現状、ふと浮かんでしまったのは「今の時代ここで芸術音楽を書く意味って何だろうか?」ということでした。
例えばクラシック音楽の中に見える美しい形は、それ自身は永遠であることを深く願っておりますが、それは一方現世からどこか離れた印象を持ったものかもしれません。ヨーロッパのように伝統的な音楽として国民的に継承されてるものならまだしも、日本においてはバレエが例えばそうであるようにある種自らの領分を超えたセカイへの憧れがこめられているような気さえします。これは業界内というより一般社会においてです。
そうした中からふと、「今の時代に例えばモーツァルトの音楽を、当時の空気や作曲者の願いを斟酌して演奏する、というのは、まるで死んだモーツァルトの霊を降臨させるようなものではないか」ということを浮かんでしまったわけです。
これはいささか危険な発想とは思いますが、しかし、そのアプローチで作品を作る気持ちは抑えられませんでした。
そうした中で初めて生まれたのが「Endor」であり、そして完全なオリジナルで日本的であることを取り入れたのが「シビトノウタ」だったのです。

「Endor」(34:14~)

では、シビトノウタとはなにか?

この曲は「」という未完の作品をリメイクしたものでもありました。
それは音楽という地獄に永遠に閉じ込められたモノオペラとなります。

この曲は前述した「霊の降臨」の発想をさらに進め、「どの曲も意思を持って生きていたら」という発想から産まれました。
この発想はクラシックだけのものではなく、昨今のインディーズのゲームによく見られる手法を取り入れています。具体的な題名をあげるとネタバレになるので伏せますが、例えば登場人物が我々プレイヤーを認識し、モンスターを殺しまくる我々に対して責め立てたり、あるいはプレイヤーの我々に恋をしてライバルを「消去」してゲームを破壊し始めるようなものもあります。
そうした「メタ手法」は決してトリッキーなだけではなく、作品が作品と自己認識した自然な物語として、リアルなプレイヤーを追い詰めていくのです。

シビトノウタでは作曲という行為自体をある種自己批判しており、それが物語の一部となっております。
霊魂の封印に絵画封印という、魂を絵の中に閉じ込めるものがありますが、この作品においては楽譜封印とでも言うようなある種の禁忌を試みております。
ここで表現されていることとは作曲された音楽が永遠に閉じ込められた過去的な存在に堕ちるのではなく、生きたものとして観客に語りかける体験です。
それはともすれば「演劇」に接近する試みでもありますが、舞台上に行うということに対する意識にある種あたらしい一石を投じるものとなると石川は思っております。

シビト=死女

この作品は魂を持った音楽というコンセプトであり、別段それは誰でも良かったはずです。にも拘らずタイトルに「女」を入れるほどのこの作品は女性であることにひとつの重点がおかれています。
これは作曲家の直感が主な動機なのですが、それは次のように自己解釈できます;
この作品は楽譜というシステムに閉ざされた魂の悲哀であります。これはまた、歴史的にも権力による不自由を長きにわたり被った女性という立場と繋がるものがあります。
この側面は古典詩からテクストを用いたことと少なからず関係があるのです。

シビトノウタの動機

ここからは曲のネタバレとなりますので鑑賞後をお勧めいたします。
この曲は一部の無調的な部分を除いてはほぼ「調性的」もしくはモーダル的であり、古典的な技法を多く用いていると自覚しております。
1曲目に登場するメロディはこの曲の多くを表現しております;

「胎児よ」
4度音程の順次進行。神。決意。決断。訴え。

この4度下降はある種「かみさまへの問いかけ」のようなニュアンスを持つことが多いです。胎児ということもある種原始的なものへの郷愁ですし、全く同じメロディで「かみさま」と呼びかけるシーンが6曲目にございます。
この4度下降に対し応答する上行形も一つの要素として行きています。
4度進行と言うこと自体がドミナントの進行でもあり、歌も張るような響になることが多く、強いニュアンスを持ちます。このことが作曲者の内面において神や決意を示すメロディ進行となります。

「なぜ踊る」「母親の心がわかって」
3度音程の順次進行。彷徨える人の心。


この曲における3度音程はとても重要な位置を示すことが多いです。
例えば2曲目「お兄さま」の中間より登場するアイロニックなテーマも3度音程が頻繁に用いられます。

また6曲目「わたしを覚えて」の主要テーマも3度音程から始まります。(「だれ?」だけ4度になります。)

「わたしを覚えて」のテーマの3度音程A# C#は1曲目の「母親の心がわかって」と音程は同じであり、それは5曲目の表題である「我が心の楽しさを」のフレーズに繋がります。

(またこれは「楽しさを」と言うところが4度音程となっております。)

また「♪ここはどこ」テーマは、2曲目のクライマックスや4曲目の翻訳朗読の裏でも流れております。
このように全ての曲がオリジナル歌詞の新生の音楽である6曲目に通じるストーリーとなっております。

ドグラ・マグラは読者自身の主体性を問いかけるサスペンスであり、
主人公に「お兄さま」と呼びかける隣の患者の声をはじめに色々と奇妙な事件に巻き込まれていく。

夢十夜の第一夜は夏目漱石のとりとめもない夢のなかから、
意思をはっきり持っている女がいる。

百人一首は「古典」というアイコンをもちながら
その裏には生々しい恋慕の情がひそめられている。

「舞姫」の一節は生まれる子を案じる不幸なエリスが発狂する前に豊太郎に語りかける家庭の幸せである。

1〜5曲目がこうした既存のテクストに沿った標題音楽というのであれば
6曲目は純粋に音楽の意思に従った絶対音楽を歌詞にしたような音楽なのです。
音楽は楽譜に永遠に閉じ込められておりますが、演奏の度に蘇ります。
それは無限に繰り返されます。

そんな地獄のような孤独の中で音楽が求める救いはただ一つ、「わたしを覚えて」ということなのです。

今後のシビトノウタについて

シビトノウタはこのように複雑な楽曲であり、もしかしたらもう一度聞くことでなにか新しい発見があるかもしれません。
NUJ.Projectは今後とも、録音や再演や再編などのこの作品の新たな展開を検討したい気持ちがあります
ぜひともインターネットのフォローやE-mailのご一報などぜひいただければ皆様に新しいお知らせをお届けすることができますので
応援いただけたましたらとても嬉しいです。

NUJ.Project 石川潤

nuj.project.2019@gmail.com
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Endor

作品概要

この作品は「死んだ音楽」というアイデアに基づくものである。
メディア機器が進化していくことで、生演奏というメディアはメディアの原義である”霊媒”のごとく古き精神を主張する存在となって後退していくのではないかとふと考える。
それでも前進する可能性を求め様々な試みを行う人たちを私は知っている。
だが、私はものごとの本質に触れたい、という気持ちからあえてペシミスティックに、見たくもないことを直視することで、この創作に取り組んだ。
すなわちこれはすでに一度死んだ音楽である、ということを。
クラシック音楽の作曲はすでに一度解体されてしまったということを。

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短編:シ線上のアリア

朝のコンサートの前に軽く朝食を済ませよう・・・ディケンズはそう思い近くのダイニングレストランに向かう。レストラン内はクラシック音楽が流れていて、今はパッヘルベルのカノンである。ディケンズは腰を下ろし、自身の商売道具たるヴァイオリンケースをその側に置く。そしてパンとサラダとエッグとコーヒーを注文し、新聞を読み始める。

どうやら近頃、人が突然悲鳴を上げながら死ぬという奇怪な現象がこの街で頻繁に起きているようである。化学薬品なのか細菌なのか、あらゆる原因を調査しているものの全く不明で、未だ解決されていない。これで3人目ということなので、まったくどうにかならないものかね、と思いながらディケンズは新聞をめくる。が、ふと思い当たってふたたび怪現象の記事を読み返す。犠牲者がどれも似たような顔をしている。どれも、どこかで見たことがあるような顔だ。
しばらくしてなんだか気が重いなと思っていたが、よく耳をすますとその答えはわかった。店内で流れている音楽がいわゆるバッハのG線上のアリアだったからだ。ディケンズはそれを訊いて、何かを思い出してため息をついた。

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プロコフィエフの“鉄と鋼の”うた

激烈な感情をもったものに限って、時折優しい一面を見せた瞬間の切なさは途轍もなく大きい。たとえばこの、プロコフィエフ交響曲第2番がそうだ。

プロコフィエフ交響曲第2番はオネゲルの作曲したパシフィック231という機関車のような曲に霊感を受け「鉄と鋼の交響曲」を作ろうと思い立って作られた。

しかしその内容は耳をつく警告音、切り刻まれるようなリズム、野太い歌に満ちた激しい音楽で、当時同じく激烈なストラヴィンスキーの「春の祭典」ブームが去ってサティのような耳に優しい六人組が流行っていたパリにおいてはあまりに冷淡な反応だったそうで、あのプロコフィエフが自分の才能を疑うほどに自己嫌悪に陥ったという逸話が残されている。

この交響曲は全2楽章からなり、第1楽章が前述した激しいドチャスカした金属の筋肉みたいな音楽だ。とりあえずこの雰囲気をリンクのクリックで確認してから次を読むと良いかもしれない。

第2楽章はそれと対比して何かエモい。次の冒頭だけでも聞いていただけると言わんとする事がわかると思う。

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