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EPITAPHSというタイトルについて

満を辞して始めたこのブログシリーズだが、なぜ「EPITAPHS(墓碑銘)」などという縁起でもない名前をつけたのか。
実はこのホームページnujawakisi.com自体が「墓碑銘」のコンセプトを持ってデザインされているからである。

SNSはその情報発信についてとても刹那的・一瞬な性質をもっていると感じる。「今日こんなことがありました」「これからこんなことをします」「こんなことを思った」等々、その情報は伝わった一瞬のみ人の目に届き、何らかの反応がくるかもしれない。しばらくするとその情報はタイムラインの多くの情報に押し流され、ほとんど忘れ去れられる。情報発信と効果は実に刹那的に過ぎ去っていく。

しかしながらそれは瞬時に「消え去る」わけではない。アカウントのページやブログを開けばその言葉をどこまでも遡ることが出来、その人が発信したことは半永久的に残ることがわかる。検索エンジンに捕捉されるほど知られることによって、いつまでも参照されることさえあるかもしれない。
当然、死んだ後もサーバーがある限り残り続ける。Facebookで亡くなった人が、その思い出を偲ぶ写真にタグ付けされている様を見たことはある。アーティストのプリンスが世を去ったときにアイコンの目が閉じられたことも、何かとこのSNSの不滅性に対して象徴的な意味合いを与える。

その時々の生きた様を刹那的に表現し、半永久的に死後まで残る。それはまるで故人を偲び、かつて彼がどのような人生を歩んだのかを墓石に刻む墓碑銘のように感じる。

もっとも、このような「私が死んでも言葉の中で永遠に生き続ける。」という考え方は、たとえばキリスト教の永遠の命のようでもあり、あるいはミケランジェロの「不滅」など古くから詩の世界で見ることができるが、インターネットの表現は、それがより日常に卑近した領域で新鮮な情報として表現できるようになる所に変化がある。
インターネットという世界上ではより個人の生死の境が曖昧になる実感があるのはこのためだろうか。死んだ後も残るかもしれない半永久的な空間なのに、日常の中で気軽に書けてしまうのだ。
しかしそれは人が永遠を獲得したわけではない。結局現実の肉体が脆いことに変わりはない。体調が悪いときに無理に文章を打つことはできないし、脳に障害が発生して文字が打てなくなったら何もできない。結局のところ肉体が死んでしまったら自分で管理することができなくなるのだ。

それでもサーバーが生きる限り、文字に込められた魂は残り続けるのだが。