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短編:シ線上のアリア

朝のコンサートの前に軽く朝食を済ませよう・・・ディケンズはそう思い近くのダイニングレストランに向かう。レストラン内はクラシック音楽が流れていて、今はパッヘルベルのカノンである。ディケンズは腰を下ろし、自身の商売道具たるヴァイオリンケースをその側に置く。そしてパンとサラダとエッグとコーヒーを注文し、新聞を読み始める。

どうやら近頃、人が突然悲鳴を上げながら死ぬという奇怪な現象がこの街で頻繁に起きているようである。化学薬品なのか細菌なのか、あらゆる原因を調査しているものの全く不明で、未だ解決されていない。これで3人目ということなので、まったくどうにかならないものかね、と思いながらディケンズは新聞をめくる。が、ふと思い当たってふたたび怪現象の記事を読み返す。犠牲者がどれも似たような顔をしている。どれも、どこかで見たことがあるような顔だ。
しばらくしてなんだか気が重いなと思っていたが、よく耳をすますとその答えはわかった。店内で流れている音楽がいわゆるバッハのG線上のアリアだったからだ。ディケンズはそれを訊いて、何かを思い出してため息をついた。

*

男は朝起きて、昨夜仕上げた文章の確認をしている。念には念を押して間違いがあったら訂正をするためだ。男はライターであり、最近のファッションについてのコラムを書いていた。細かいことは関係ない。いかに優れた一文を書き続けるかが勝負であり、そのためには言葉自体の一言一句のミスを許さない厳しい姿勢でなければならない。殆どは昨夜すませたのだが、あと1ページを残して就寝してしまったので今朝になってまたチェックしているのだ。
(よし・・・大丈夫だな)と男は安心した。後は編集部に原稿を届けて反応を待つのみ。これから郵便局に向かおう、と男は赤い帽子を被り、大きな封筒と切手を準備して原稿を封筒に入れて切手を貼り付け、それを抱えて外に出る。締め切りまでほとんどギリギリであり呑気にしてる場合ではないが、すがすがしい太陽と空気が男に心地よさを与えている。
赤い帽子の男。

*

「バッハは素晴らしいね。」
マッケイはディケンズにそう語る。「バッハは・・・200年以上経っても新しい・・・バッハは時代を超えているのだ・・・」
「そうだね、僕もバッハ好きだよ。」
ディケンズがそう言うとマッケイがキッと睨んで言う。「お前はバッハを理解していない。時代を超えた音楽・・・それは永遠の体現だ・・・このようなものが今ここにあるのが奇跡・・・」
ディケンズはやれやれと首を降る。ディケンズはあまり目立たないがプロのヴァイオリン奏者でありバッハのことは当然勉強を重ねているのだが、長年の友人であるマッケイが他人にこのような全能感溢れる物言いをすることは決して珍しくなかったので、誇りを傷つけることなく受け流している。
マッケイは傍のケースの開いてるヴァイオリンを取り出して構えながら言った。
「バッハの・・・特に・・・G線上のアリアは美しい・・・これに勝る永遠性は・・・他には無いのではないか・・・」
そういって彼はヴァイオリンのG線でそのメロディを弾きはじめる。素人で音程は多少合わないが、彼にしかできない恐ろしく強烈に響く演奏。本当に、このアリアが好きなんだな、と思わされる。しかし自分は無伴奏のパルティータが好きなんだけどな、とディケンズは思うが、狂信的な彼の手前なかなかそれは言えない。マッケイは陶酔しながらヴァイオリンと踊っている。

*

G線上のアリアはよくマッケイが弾いていたな、とディケンズは思いだした。だからかあの曲を聴くといつも彼の演奏を思い出す。今となってはあれを聴くと懐かしいような、あるいはとても怖いような、奇妙な気分になる。
レストランから足早に抜け出したディケンズは、少し早いけどコンサート会場に向かってしまおうか、と考える。知り合いのヴァイオリン奏者のエオリーナがチェンバロ伴奏を交えて演奏する朝のコンサートである。ヘンデルなどのバロック音楽を演奏するそうだ。それを楽しみにしよう、と思いつつ道を歩く。
その時背後から赤い帽子の男がディケンズの左肘にぶつかり、ディケンズはよろめいた。男は封筒を持って急ぐように歩いている。周りが見えてないみたいだ。もう遠くの方にいってしまった。失礼なやっちゃなと思ったその時、男は突如立ち止まる。あれ、どうしたのだろう?と思った時に男はぐるぐる回りながら「ああああああ」と叫び、壁にぶつかり、壁にすがり、「ヒッ」と声を上げながらそのまま倒れて動かなくなる。

*

突然その光景が来た。
眼を開いても閉じても、それが見える。
さながら眼と脳との間にその光景が挟まったかのようだ。
それは大きな白い渦巻きで、その渦巻きのあちらこちらに赤い歯車がくるくると回っている。
鳴り響くは低音の弦を弾く音。
その上を歌いだすヴァイオリンの歌。

それはバッハのG線上のアリア。

渦巻きの中央から赤いものがゆっくりとこっちに向かって来る。
右を向いても左を向いても、その光景は全く位置が変わらない。
やはり眼と脳との間にその光景が挟まったかのようだ。

それでも赤いのがどんどんこっちにくる。
振りほどこうと身をよじる。
肩になにかレンガのような固いものがぶつかる感触がした・・・見えない壁か?
赤いものがどんどん大きく見えてくる。
ちくしょう、こいつが完全に近づいたらどうするんだ。
今多分持っているであろう原稿はどうなるんだ・・・しかし、手元が軽い。原稿が封筒からこぼれている。

赤いものは皮膚の無い人の顔と手であった。
それは焼け爛れていた。
男はふと気が付いた。もしかして僕はあの連続突然死とやらに巻き込まれているのか。
G線上のアリアがもう一度繰り返される。
真っ黒の乾いた瞳がこちらから眼を話さず見ている。
口は笑っていて、匂わないのに腐臭が感じられる。

その赤い手を前に伸ばし、男の肩をガシリとつかむ。

赤い帽子の男は思わず息を止める。

そしてその赤いのは。

*

「俺はアリアと結婚したい。」
マッケイが突然そんな事を言い出すのでディケンズは驚いた。まさかとは思うがとぼけてみる。
「アリアって・・・どんな娘なんだい。」
「G線上のアリアにきまっているだろう!」
突然マッケイは怒鳴りだし手元のコップを激しく地面に投げ捨てる。ガシャンという音と共にコップは粉々に砕け散り、そしてマッケイは崩れ落ちるように咽び泣いた。
「・・・誰も理解してくれない・・・皆バカにする・・・」
ディケンズは困り果て、慎重に言葉を選びながら質問する。
「マッケイ。君がアリアが好きなのはよくわかるが、結婚って一体どうやって」
「そうだ、そこが問題だ!」マッケイは喚き散らす。「俺は人間だ。しかしアリアは永遠の世界にいるんだ。どうすればいいのか分からない・・・。」
「いやまあ音楽と結婚って詩的な表現としてはアリだけど実際には無理があるよ。あの、結婚したいというのなら、知り合いに可愛い娘さんとかいないのか?」
マッケイは突然立ち上がり、ドドドドと足音を立てながらディケンズに詰め寄って胸倉を掴む。
「二度と、そう言う事を、言うな。」
「脚、破片踏んでるよ・・・。」
ディケンズが思わず呟く。マッケイの靴から血が流れている。
「いいか、俺はあの永遠の中にいるアリアと結婚するんだ。誰にも止められない。」
マッケイは低い声で凄んだ。
「今夜、してやる。」

*

ディケンズはそそくさと去る。結局周囲の反応を見るに、あの赤い帽子の男は狂ったような動きをした後に死んでしまったらしい。例の連続突然死事件、これで4人目だ。まったく嫌な朝だと思いつつ、コンサート会場にたどり着く。

会場は美術館のギャラリーと一体になった開放的なホールで、出入りが気軽にできるようになっている。
早く着いたのであまり人がいない。一番空いている椅子に座った。
しかし、それはどうも誤算だった。直後に若い青年がディケンズの隣に座ってきたのだ。若い青年は馴れ馴れしく「どうも」と挨拶してきたのでとりあえずディケンズは、「ああ」と答える。すると青年はまた口を開く。
「今朝、起きたの知ってますか?連続突然死。」
青年はそれをまるで楽しいことかのように訊ねるのでうんざりしたディケンズは
「ああ、そうなのか。今知った。」と嘘を答えた。
「そうなんですよ。今回は雑誌のライターでして。僕、この事件を個人的に追ってまして」青年はよく喋る。「それでこれは当然スーパーナチュラルの仕業だと思うんですよ。ユーレイというか残留思念というか。だから彼らなりの目的をね、探求すると分かることもある。それで被害者3人と共通項があるんですよね。ほら、見てくださいこの写真。」
青年が見せた3枚の写真をディケンズは雑に一瞥した。
「この写真、3人とも似てるでしょう?アゴのラインとか鼻とか。茶色い瞳なのも同じです。今朝死んだ男の方とも似ているんです。で、私がなぜあなたに声かけたかと言いますとね、あなたが4人とかなり似ていて驚いたんですよ。もしかして、あなたの友人で最近死んだ人がいないかどうか、って」
「君。」あまりに失礼な話だったので思わずディケンズは声を上げた。「ちょっと黙ってくれないか。」
すると青年はにんまりと笑った。「やっぱりいるんですね。」
「その話は嫌いだし興味がない。やめてくれ。」
「わかりました。わかりましたけど、もしも」
「黙ってくれないか?」
「・・・・」
さすがの青年も黙りこくったその時、拍手が聴こえる。エオリナと伴奏者が一礼をしてチューニングをし始めていた。これからコンサートが始まる。そしてヘンデルの柔らかなヴァイオリンソナタが始まる。
ちくしょう、何てこと言ってくれるのだ。青年のせいで、変な記憶が蘇るではないか・・・。

*

今夜やる。確かにマッケイはそういっていた。今夜永遠の存在、音楽と結婚する。嫌な予感がする。オーケストラの練習を終えたディケンズは、飲み会を断って急いでマッケイの家に向かった。マッケイの部屋は電気がついていない。
「おい、マッケイ、死んでないよな?」
ディケンズは扉を叩きながら叫んだ。
「おい、マッケイ、マッケイ!」
あまりに叩いたのか扉が自然にギイと開いてしまった。中は真っ暗だ。暫くその闇を眺めながら、なんとなく、一歩二歩と中に進んでみる。

「やあ、ディケンズ。」

声が聞こえた。振り向くと、背後の窓の月光に照らされ顔が見えないマッケイがヴァイオリンを提げて立ってた。
「マッケイ!」
「結婚式に来てくれてありがとう。僕たちは永遠に一緒になるんだ。」
マッケイは片手で石油ポリタンクを頭上に上げる。
「よせ!マッケイ!やめろ!」
「これは婚姻のためのナルドの香油だ。神のもとに結ばれるための神聖な香り。」
どぼどぼどぼ。マッケイの髪は濡れる。石油の香りが立ち込めるなか、マッケイはポリタンクを置き火のついたランプを取り出す。
「ディケンズ。きみはいい友達だ。」
「マッケイ・・・?」
「君は誰よりも音楽を分かろうとしてる。君が僕の知る音楽、すなわち永遠を知らないのは不幸だ。」
「君は・・・何を言っているんだ。」
「だから僕は君を迎えにいく。」
マッケイはランプを投げつける。すでに床にも広がっていた石油が引火しマッケイの全身が火に包まれる。火に包まれながらマッケイはヴァイオリンを手にあのG線上のアリアを執念深く弾き始める。
「うぐっ」ディケンズは思わず吐き気がこみ上げたが、それを我慢し身を翻して逃げ出す。

その演奏は、曲が終わらないうちに止んでしまう。

*

「ありがとうございました。」
拍手。エオリーナが一礼する。拍手が長引いている。
「では、アンコールとして、バッハの管弦楽組曲2番のアリアを演奏します。これはG線上のアリアとして知られているメロディで、キーを変えればヴァイオリンの一番低い弦のG線だけで演奏できる事から名づけられたものです。ただしそれは本来の曲よりちょっと低くて野太い音色なのですよね。実際はもっと高い音で、ヴァイオリンの雅な音色を生かしたとても煌びやかで美しいメロディなのです。では、お聴き下さい。」

また、あれか。G線上のアリア。ディケンズは少しうんざりした。マッケイがよく弾いてたのより非常に高い音程でアリアは奏された。マッケイの音色はしかし強烈であった。G線上のアリアという編曲作品をバッハの至高のものとして考えるのは疑問があるものの、それでもマッケイのあの曲に賭ける情熱はホンモノだったに相違ない。
エオリーナが見えなくなったことに気づいた。それどころかここはどこだろう・・・白いうずまき・・・赤色の歯車。エオリーナの演奏と、それより音程の低いマッケイの演奏が重なって気持ちの悪い不協和音が鳴り響く。
うずまきの間から現れる赤いそれは、そうだ、ディケンズならすぐわかる。それは焼けただれたマッケイ。ディケンズは笑いながら涙する。お前は私を迎えに来たのだな。「だから僕は君を迎えにいく。」そのために、私に似ている人々の魂を連れ去った。そうか、全ては私を求めてしたことだ。ならば、私が最後の犠牲者となろう。
おいで、マッケイ。彼の乾いた黒い瞳はディケンズを見つめ続けている。いつの間にかエオリーナの本来のアリアの音は残響のようにかすかとなり、焼けただれたマッケイの身体から発せられるマッケイの演奏しか聞こえない。
その身を焼き尽くす炎。
マッケイはディケンズの肩に手を置く。

ディケンズは椅子から崩れ落ちる。演奏は止む。しばらくして、悲鳴が上がる。雑誌記者の青年が彼の亡骸を撮る。