激烈な感情をもったものに限って、時折優しい一面を見せた瞬間の切なさは途轍もなく大きい。たとえばこの、プロコフィエフ交響曲第2番がそうだ。
プロコフィエフ交響曲第2番はオネゲルの作曲したパシフィック231という機関車のような曲に霊感を受け「鉄と鋼の交響曲」を作ろうと思い立って作られた。
しかしその内容は耳をつく警告音、切り刻まれるようなリズム、野太い歌に満ちた激しい音楽で、当時同じく激烈なストラヴィンスキーの「春の祭典」ブームが去ってサティのような耳に優しい六人組が流行っていたパリにおいてはあまりに冷淡な反応だったそうで、あのプロコフィエフが自分の才能を疑うほどに自己嫌悪に陥ったという逸話が残されている。
この交響曲は全2楽章からなり、第1楽章が前述した激しいドチャスカした金属の筋肉みたいな音楽だ。とりあえずこの雰囲気をリンクのクリックで確認してから次を読むと良いかもしれない。
第2楽章はそれと対比して何かエモい。次の冒頭だけでも聞いていただけると言わんとする事がわかると思う。
スコアをみると、この部分でさえもやはり「鉄と鋼の交響曲」を意識してるのではないかと思う。なぜならば伴奏が歯車のような構造だからだ。
ファシファシ・・と細かく動くクラリネット、その倍遅くファーシーファーシーと動くストリングス、そしてさらにその倍遅い拍刻みで歌われるオーボエの歌、とまるで歯車のような設計を感じるリズムの音楽。ご丁寧に、あとで登場する弦の対旋律には「senza espressione(感情を込めない)」と書かれている。
にも関わらず滲み出てくるヒューマニティ溢れる豊かな歌。
プロコフィエフの作品にはしばしばこういう、非人間への憧れと人間であることの矛盾が見えるところが良かったりもする。
激烈なモダニズムの響に憧れながら、絶対歌心を捨てることはできない、みたいな。
この作品の、この楽章においては、「鉄と鋼」という世界観でもっともシンプルに現れており、それがどういうわけか、ちょっと日本的な郷愁を感じたりもする。
初演の失敗でプロコフィエフ自身が自己嫌悪に陥ったくらいなのだから、よほど自分にとって大事な・もしくは痛い部分を晒した作品なんだとも思う。
そのあとの変遷を見ると徐々にモダニズムは淘汰され歌心が生き残り続けてヒットしていくわけで、
作曲家の人生ってなんだろうな、と作曲家として想いを馳せる、
そんな意味でも貴重な作品だと僕は思うのだ。
交響曲第2番。